対話を提案してきた仏教

 

説法供養 2

 

昔、「お堂や仏壇から仏教が開放されるとき」
というお話を聞いたときはまさに青天の霹靂でしたが、

どうやら、そうなっていく潮流が見えてきました。

お釈迦様や各宗派の祖師にいよいよ人類が追いついてきたといったら、叱られそうですが、
それだけ直面している問題の障壁が高いほど、やはりより高い知性をもって当たらねばなりませんから、そういうことなのでしょう。

仏教を話題にする上での明白な前提としては「自分ことを知る」
仏教は自分を知るために紐解くものである。ということです。
反対を申し上げておくとわかりやすいのですが、それは、自分の思うように他者を説得したり、責め立てたりする材料、自分の身の保身に使うということをしないということです。

仏教から頂いた知性で人を責める。
自分の自己正当化の裏付けとして用いる。
自我の欲求を叶えるために習学する。

これは仏教の仏教的受け取り方ではないということが、当初からのトリセツでした。

名高る賢者や祖師がかなりいいところまで行きながら究極の悟りに気付けないで終わったという話がたくさんありますが、これもこの初動初心を欠いたためです。

でもこの話は近代社会においてチンプンカンプンなのです。
不肖私も少なからず近代教育のお世話になりましたから、これにナルホド!と膝を打つまでに時間を要しました。

お坊さんでもそうなのです。珍しくないのが現代の真相です。
ですら、事態は重大ですが、軽やかに易しく受け止めていくほかありません。

20世紀になってようやく近代社会、近代思想、近代教育の中から「これおかしいよねぇ」という声が上がり始めました。
どういうことかというと、「知性を高めれば高めるほど、理解力が増していく、認知力が増していくはずなのに? どうも実際にはみんな逆行している、なぜ?」という希望の裂け目が近代社会の中から生まれたのです。

人は 理解が深まれば深まるほど、没交渉になっていくふしぎ

離婚は当人たちにその責任はなかった!! 衝撃のスクープ!

この真相を掴むのは、かなり至難の技ですが、事実は事実です。

ところで
今年はどうやらそのふしぎな魔法から社会が脱楽し始めたと見えるのです。

この真相が分かっていたのはもう随分前、短く見積もっても50年は経っています。
しかし、分かっているというだけでは変わらないのだということもこの50年が語っています。

一言で言ってしまえば「取捨択一の思考法」が世の中の混乱の根源要因ということ。

え〜、じゃあどうやって決済するの〜。
それを身に付けるのは至難の技です。しかし事実は事実。

コロナウイルスの問題は、南北貧困格差という人と人を二つに分けて、一方にだけ価値(勝ち)を与えた。一方が勝ち取って良いと世論が認めてきた。負けてどんどん貧困が深まっていく人たちの事実にモザイクをかけて。これがウイルスが我々のそばにきてお近づきになったわけじゃないですか。

アメリカを中心に大騒動になっている問題。世界的にデモが起きていること。
パリもかなり緊迫しているようです。
これも「取捨択一の思考法」によって長年続けられてきた一方を採って一方を切り捨てるその思考法に基づく日常の何百年の積み重ねの上に起きている出来事です。

仏教ではこの「取捨択一の思考法」が何より慎まねばならない行為であると説いています。
これが世界を滅亡させる根源的要因だからと。

どんなに徳を積んで、命の力を高めて、多くの人を救済しても、この思考法である限り
「ほんとうのさいわい」はないと。

かと言って、じゃあどうする?と問われて即答できるほど容易な問題でもありません。

ですから、心ある方々とぜ新しい思考のモデルについて勉強し、見出していきたいと思っています。

そのための大きな手がかりとなるのが「対話」という出逢い方なのです。

私の立ち位置

説法供養
お釈迦様の教えや経典のお話を他者に伝えることをもって、恩ある人の供養をしたという習慣がかつての日本にはありました。だから日本の昔の先祖たちはこぞって教えを宗教者任せにせず学んだのです。私に僧侶としての五体と仏様の教えの真意を汲み取る智慧を与えてくれた、恩師と母の供養の為に。

 

これから述べますことは全て、仏教によって継承されてきた智慧のお話でもあります。

仏教の中でも私は法華経経典を特別な中心として考える立場であります。
その法華経とともにある仏教は「変革の時代」「乱世」といった、社会が安定しない時期、
次々と新しいものが生まれたり、無くなったりする社会、一旦決めた秩序やルールや倫理が次の日にも破られるというような時代に焦点を当てて説かれている経典です。

今、東洋の暦に従えば、時代の終盤であり、あと二十数年で新しい次の時代が始まると暦は教えています。
この終盤というのは当然これまでの秩序から次の秩序へと移り変わるわけですから、安定せずこれまであてにしていたものが今日はあてにならない、今日あてになってもいずれあてにならなくなる状況、昨日指示されたことを今日実行しても安全とは言えません。

いわゆるリサーチというものも諸手を挙げて信頼できないわけです。
つまり外部要因による分析と推測だけではかなり厳しい時代であると言えます。

何が頼りになるのか?

お釈迦様は、当てになるのは自分自身だ、自分の他に誰が頼りになるというのだ、
だからよく自分をととのえなさい。そのよくととのえた自分ほど頼りになるものはない。

こうお諭しになっています。

この「よくととのえる」というところがポイントでしょう。
でも頼りになるのは他でもない自分しかいないんだ。というのも注目すべき点です。

これは他人のせいで自分が不幸になることはないよ。
だから自分の思い通りにならないからといって人を責めれば余計に通らなくなる。

そういうコンテキストも含まれています。

自分が外から入ってくる情報をどう処理するか?
その処理するのは価値観ですが、その価値観の検証というものをしたことがあるかどうか?
そこにかかっているというお話です。

どんなにいい話を聞いても、価値観で処理しますから、その価値観がお粗末であるなら、
自分の事なのに、自分にとっても不都合な話として聞いてしまう。
にわかに信じがたい事ですが、かなりの頻度でそういうことを我々はしています。

これをお釈迦様は例え話にして、

素晴らしい医者に診察をしてもらい、薬を処方してもらっていながら、
その薬がよく効く薬で体の毒を全て出してしまうほどの効能だったが、
その経過が自分の価値観で見てみてあまり好ましくない経過だったので、
服用をやめた。

というお話です。

ホラー映画みたいな話です。
自分を不幸にする、幸せにしない首謀者は外にはいません自分の中にいます。

それに気付けるだけでも、随分と自由になります。
一朝一夕とはいきません、手間のかかる話です。
でも確実で、一度得たら失うことの方がかなり難しい。
そして今生だけでは終わりません。次ぎのこの世、オギャアと生まれた時、
周りの大人が、「よくととのえしおのれ」な方々です。

これを今風にいうと、バリューマネジメント というようです。

これが私の立ち位置です。

 

 

確実に未来を掴む

変革の世が現実味となった今、確実に未来を掴むための第一義は、2500年も前に、すでに、お釈迦様が明らかにされています。それに従って、一つの読み解きと指針を立ててみたいと思います。

経世済民を営む
資本主義、近代社会というものの限界に直面し、新時代を意識する今、宗教というものはそこにどう参加するのか?参加すべきことを前提とし、寺院の社会的役割の基本概念について考察した。

産業の基盤
「神様仏様っているの?」という素直な子供の質問にどう答えるかということは、些細なことの様で、その子供の人生において重要な問いであり、大人の答え次第で子の人生が大きく変わることは明らかである。

宗教や仏教の活動の流れを眺望的に捉える時、自然の恵みとの関係性に触れることになる。

布施とは人と人の間での行為という認識が先立つが、実は自然界からの布施を我々は受けずしては一瞬たりとも生活は出来ない。

その圧倒的な布施力の前にはただひたすら額ずき拝む外なかったこと、祖先が宗教を発見して以来、今でも変わりはない。

また、人間力として、その大いなる存在からの布施と受け取った知性と感性があったが、約360年ほど前に出現した近代文明はこれに対する否定的思想性を育てる傾向をもっていた。これは、ギルガメッシュともののけ姫の対話において見出せるものである。

 

世界的にどの宗教においても太陽信仰を取り入れていることは明らかである。かつては宗教の力をもって取り出され、また取り込まれてきた。言い換えればその力を安全で恵み深い生命力に交換する力をもっている存在への畏敬の念が宗教となった。それから外れ独自に自然力を取り込むルートを開発したのを近代科学であると呼ぶ。それが本格的に始まったのが約360年前である。そしてその思想性における一つの結果として福島原発事故がある。

日本とはそういう意味では不思議な国である。一方では国神として天照大神を祀り、一方ではその祖神から承ったエネルギー交換の神秘を捨て、新しいルートを採用してきた。横を向いて礼拝しているような姿である。

 

宗教は大いなる恩恵を無償で与え続けてくださる存在に対しての報恩ということであり、また、その圧倒的恩恵は直接受け取ることはできない故に、その媒介者、インターフェースなる存在者に対して、特に意識を向けていく、これはいわば、魂の縦軸であり、一方で肉体的横軸と言える。

 

原発による脅威と今始まったコビット19の脅威はこの縦か横かの違いあれど、同じ文脈の中で捉えることができる。

しかるにこの事態を通して我々宗教者の今後を考える時期でもあるとの地点に立てるなら、新たな地平は見えてくる。

これは宗教者に限らず、多くの啓蒙指導者、鑑定者、教育者において共通の理念となる。

 

教化には、自ら翻訳者、もしくは交換者となる道と、優れた翻訳者、交換者に帰依してその威力を頂いて伝えるという二種類あると整理できる。

今、後者における構造が崩壊し、前者における活動の活性化、もしくは後者における活動の再構築を迫られている状態である。

ただし、これまでとは明らかに違うところは、魔術化は好まれないということ。

 

産業に第1次から順にある通り、宗教活動においても、第1次~第5次くらいまでを整理してその構造を見える化し、役割を明確化することは宗教を組織的に纏めるためには必要なことだろう。

おそらく社会的宗教活動におけるそのほとんどの次元においては、時間差はあれどコモディティ化される。専門家として確立していくには第1次であり、翻訳者、交換者であることを求められる。

 

人類が宗教を発見して以来、大いなる存在との付き合い方は、表面的にはよく似ているが明らかにその意図は二分されていた。一方はその存在を支配するまたは打ち負かすということ。もう一方はそれに随いまた一部として生きようとする意図があった。

当時は国のまつりごとにおいて、亀卜や太占による意思や先行きの読み取りをし、それに随い令を扱っていた、数千年をへた今も、依るモノが変更されただけで、国家の指針を立てる方法論、応対辞令は変わらない。いわば魔術的対応である。それをどうするか?。仏教も儒教もお釈迦様、孔子様の当初よりずっとその課題と向き合ってきている。

新しい時代へと社会体制が変更されるならば、新しいパラダイムが生まれて、そこへシフトされていく。そこでは「パラダイム効果」、仏教でいう「これまでのサンスカーラの影響」についてを共有しなければ、パラダイムシフトを遂げることが出来ない。パラダイムシフトが出来なければ、新しい社会に適応出来ない。適応できなければその社会においての役割を果たす事は出来ないどころか、自立したひとりの生活者たりえることすら出来ない。

パラダイムとは理性や意識のみならず、五感の作用までも管理している。

思考も感情も実はこのパラダイムによって管理し支配されているという真相がさとりである。
パラダイムの検証こそ、新しい社会において自分が利益を得て社会的命を獲得するための確実な第一義であることは間違いない。

25日と27日

 

三月二十五日、新月の夜、日が変わって間もない丑の刻の了り、母は静かに穏やかに息を引き取りました。大往生でした。

『本華院寳功日壽大姉』と父が授けました。母たっての願いを叶え父が引導を渡し、家族と近親者のみでお送りしました。葬送当日の三月二十七日は母の誕生日です。

昔から亡くなった日に因んだお経をその人の生涯を示すお経として読み解いた信仰習慣があります。日蓮宗では母が逝った二十五日は観世音菩薩普門品がそれに当たります。

父の守護神も観音様ですから、それに寄り添うような母らしい最後の示し方です。

また、この観音経にはお地蔵さんが説かれており、お地蔵さんは閻魔様のこと、さらに毎月皆さんがお受けになるお守りの神様は閻魔様の補佐官でもありますから、きっと今後はそういう神様のお手伝いをして我々を見守ってくれるお役目を頂くことでしょう。

一月十日の夕方、食事をした後倒れまして、病院へ運ばれました。先生の処置よく脳梗塞は取れ、再起を期待しましたが、副作用などで肺を患い、その上にこのコロナ騒動で面会謝絶となり、気力衰え、今月十八日に施設へ移りましたが、その時にはほとんど食べる力なく、二十四日「お寺へ帰る?」と尋ねると、頷いてくれ、即連れて帰りました。

よほどお寺は心地よかったのか寝息を立ててぐっすり眠っておりました。時折目を開けては、こちらを見て口を指差すので、その度にコットンにお寺の湧き水を浸し、唇や舌を拭うと、とても満足げにしておりました。

我々家族もまさかその日のうちとは思っておりませんでしたが、午前二時頃になり少し呼吸の様子が変わり、だんだんと吸う息が浅くなり、眠ったまま自然に息を引き取りました。

十二歳よりお寺の娘となり、約七〇年。お寺のために生きた、僧侶並かそれ以上の信仰修行の人生であったと思います。

日本では古来より、先祖は神となり、畏敬なる存在となるとしてまいりました。

古い書物には「この神様は何某という人の魂が神となった」などとあります。八幡様はその象徴です。この日本伝統の信仰は仏教によってさらに具体的になりました。

母は、深い陰徳を積んで自由な魂となって、これからも宝光寺と三塚を見守ってくれることと思います。

先先代の釋日学(潮随)の時から先代潮興、そして潮叡と、宝光寺は創建以来の加持祈祷寺で御座いますから、荒行を勤めます。
日学上人の五百日のうちの二百日、父の八百日、私の三百日、合わせて千三百日の間、確かに行をする我々も大変で、命の限界を彷徨う行をします。

しかし、それは一人ではできません。外に見守り支える人あっての荒行です。
それを千三百日、生涯に十三年も勤めることは、望んでもできないことでしょうし、お役目を与えられたとて、全うできることではありません。

そのような母の深く強い信仰をしみじみ憶う時、自分の悩みをちっぽけに思い、至らなさを拝み、そしてより深い信仰へと突き動かされます。

R仁・参・廿七 宝光寺潮叡

仏教とコロナ

 

いま現在コロナウイルスが世界を騒がせております。

これは、これまでの伝統的には疫癘(えきれい)と呼んできました。いわゆる疫病(伝染病)です。
人類にとって初めての伝染病は天然痘ですが、日本では仏教帰依をもってこの難を逃れました。その象徴が大銅像仏、東大寺の大仏様であります。この銅像というところにも深い意味があり、こういった社会問題を解決に導く智慧が託されています。

当時国を治めていた聖武天皇は仏教を国教とすることで疱瘡(天然痘)の大難収束を願いました。国家鎮護と国難回避は、まず各地に国分寺創建することに始まり、その総本寺のようにして東大寺が建立されます。

東大寺の大仏様が完全に完成しました七六二年。この年を暦に基づき今の時代に符号させますと七時代前の二年後と、時代の流れの同じ時のことです。

この草案は、法華経と華厳経にある仏の知見をもって、この世界のカラクリを見たその目線に基づいてシステマティックに最上の社会形成を試みるものとして取り組まれました。

そういった理想郷は遥か昔に明らかでしたが、その大事業への動機付けが天然痘の流行だったのです。人情の切なさといいますか、人間のサガといいますか、苦悩に会う、病によって身を正す人間の性質、これを有難いと呼んだのでしょう。

仏教の中にはこうした社会の安寧に常に対応し続けて、仏様の目線でそれを見て解決策を実行していくアンガジュマンなる目的がお釈迦様の初めからありました。

霊性的な面では、天上の神様にも反社会勢力的神様がいることを認識していて(これはキリスト教にもあります)、人間の邪心や愚かさを食物としている。そして道に外れているにも関わらずうまく行く、豊かになるということをもたらします。一方、そういった反社会勢力的神の取締役としての神様がいらっしゃって、そういった神が引き起こす悪さを退治する役目を担っています。天然痘に始まる伝染病を「疫病(えきびょう)」と呼んできましたが、これはまさに自分に与えられているお役目を放棄する心の病からきています。
他のために自分には何ができるかというような菩薩級の志で常に生きている方には無縁のことなのでしょう。

神仏習合の縁起を持つお寺では、古来よりこれらの邪神を取締る神様に特別な祈祷法楽を修してきました。
当宝光寺は、大垣城下の鬼門鎮護の寺としての役目を担い、明治の廃仏毀釈や神仏分離、神社統合などの影響を奇しくも逃れて、今に伝統的な祈りを残しているお寺ゆえか、その疫病退散の守護神を今もなお山内にお祀りしております。

昼間お堂へは自由にお参りいただけます。あえてどこに祀ってあるかは内緒です。でもその神のみ前に立てば必ずそれがわかります。
こんなご時世です、楽しく守護神探しと日本の伝統的疫病予防のお寺詣りにお勤めください。

ただし、神聖なる場所です。仲間で集まってというのではなく、ご自分お一人の志として厳かにお参りください。堂内は私語を慎む処でもあります。

 

今月の27日は

2月27日(木) 2時〜5時

毎月の通り、ほうろく灸に始まり、祈願と供養
そして今月は「仏教とは何か?」についてお話しします。

仏教はその起源から今日に至るまで、ある一つの役目をになって我々のそばに存在し続けています。
それは、これからの激動の乱世を生き抜いていく上で、たくさんの安堵を与えてくれるものです。

仏教の中にある処世の力を知り、仏教に対する新たな目線を持ちましょう。

もちろん、コーヒーや春日のほうじ茶、お寺飯もご用意してお待ちしております。

ご参加の方は、前もってご一報ください。

オリバーツイスト カンゲキ

実際には11月の末のことで、すぐ書いておいたのですが、 12月1月2月と目まぐるしく過ぎたのと、塩抜きをして、今日になりました。
3歳から知る子供達の勇姿に感激の観劇でした。

英国のディケンズ原作、オリバーツイストの舞台を観劇し感激して帰って参りました。

現代社会に訴えかける八年生の思いに引き出されました。

自分が生まれたと同時に母親を亡くしたオリバーのシーンから始まります。

お釈迦様も生まれて間も無くお母さんが亡くなりました。

そのことをシッタルダ(出家前のお釈迦様のお名前)はご自分のコンプレックスとして持っておられました。オリバーにもあったのでしょう。

アリストテレスの詩学では、模倣・思いと状況の乖離・認知・精神の浄化などが物語によって生み出される時、時間と空間を超えて観客に神話的癒しがもたらされるといいます。

ですから宗教者から見れば、演劇は明らかに心の健康をもたらす薬と認識しているのです。

模倣や状況の再現は、とても心地よく見るものを時と場を超えたところへと連れて行ってくれました。竹内敏晴さんはよく「役は演じるのではない、役を生きるのだ」という表現をされていましたが、これはとても難しいことです。その人物の台本には出てこない、ひとりの人の人生を感じてはじめて「役を生きる」、言い換えれば舞台の上で自分ではない人物として生活をするということです。

オリバーは、ほんの少ししか貰えない食事に自分も皆も満たされないことから、「おかわり」をします。これが大きく人生を動かすことになります。自分の命と引き換えに母親が亡くなったことの次に、「思いと状況の乖離」がここでも起きました。

何か、雰囲気的にヤバそう?、でもそれ以上にお腹がすく、こういうことは私も修行中の経験としてあります。

一瞬にして自分の存在が変わってしまいます。

劇中繰り返されたコンテキストとして、子供達に食事を施すことに対する大人の不満です。

お金というのは元は信用手形で、教会がその人の身分を保証する証書を発行していました。いちいち教会が発行する手間を省くためにその業務を委託します。それが銀行の始まりです。

これによって、神、大自然、父親よりもお金の力が強くなっていきます。

父性喪失の始まりです。

それまでは世界中の神話が示し、フロイトも特定した「エディプスコンプレックス」、偉大なる身近な存在である父親を超えていくことで一人前になるという人を人にする営みにおける、重要な父性、超えがたい父親の存在を喪失することで、人が人となる仕組みを失った現代。

真理と倫理が乖離した社会です。

真面目に生きれば生きるほど社会の状況がひっくり返っているゆえに、どんどんあらぬ方向へと転がっていく。真面目とか真剣とかというのはそれだけでは善でも悪でもないのです。

これについても、作者の意図が明確にあって、それが今回の舞台でも明らかに見せてもらいました。

現代においても、その社会の真相が深く見えてくるほど、誰も責められないという思いが高まります。

そういった劇中に流れる提案された状況にも関わらず、オリバーは行くところ行くところ、大切にされます。出会った大人が大切にしたくなる。

透明さ、素直さ、無邪気さ、それは現代ではもしかしたら病名がつくかもしれないほどの清らかさがオリバーのうちから漏れ出ている。そのこもれびに周りの皆は癒されたのでしょう。まさに浄化、カタルシスです。

ディケンズが意識したかどうかわかりませんが、明らかにイエス様の姿が描き出されていました。

世間的な聖者のイメージというものに対する提案がなされています。

まさにリアル聖者です。

オリバーは生まれ持ったものがあったでしょう。それが明らかに覚醒するのは「おかわり」という行為から生じた出来事、自分の今うちに秘める思いを表現するということに対する徹底した社会からの弾圧です。

これも信仰的な履き違え、ここでも聖者に対する勝手な「錯誤」を見せています。

受け取る側が勝手に相手の人柄を思い込み、勘違いして、その本人の真相とは全く異なった人物像として一人歩きしてしまう。人間関係によくあることです。

ロンドンへと希望を咲かせてオリバーが行きますが、窃盗団のひとりの少年に導かれてその一味に加わります。

その中に窃盗という生業に育てられ、盗人を恩人とするというねじれ構造の中で成長したひとりの娘ナンシーがいます。この子がもうひとりの主役でもありますが、明確に自分の罪について認知しながらも、その流れ(仏教でいうサンスカーラ)にあえて身を施していきます。父性に対する従順な娘として最後はそのねじれた父性の手によって命を落とし、また、その手をかけたフェイギンも正気を失い獄中で心が壊れてしまいます。

現代社会の中心にある、誤った秩序を採用することによって起きている問題。それは個々にいくら努力をしても全く解決しないどころか、より一層の苦悩を誘発するという、どこにでもある普通の話、普通の話にして人類最重要課題を、見事に表現した作品であり、それがしっかりと舞台によって表現されていました。

舞台の始まりと終わりに語りかけてくださった担任の先生、その先生に接する生徒たちの姿、またそれを受け取る先生の姿勢。ちょっとした悪ふざけやイタズラも全身で受け止める寛容なるがゆえに厳しさが光るその先生に、これからの時代に沢山の復活を遂げる父親像、それは男性とか女性とか、子供がいるとかいないとかではなく、誰しもが持つ父性のモデル、お手本を見せてもらいました。

こういう大人に育てられる環境は何より大事にしていきたいと、改めて再認識し、深く癒されたカンゲキでした。

けんぴょうを踏む という古事があります。

霜を踏んで踏んで踏み固め、大地の女神の力を引き出し、堅固な土台を作るということです。鳥山敏子先生に始まったそんな地母神の働きによって生まれた土台の上にようやく豊かな学び舎が建設され始めている姿を見ました。

ココロトカラダノアイダ

1月27日(月) 午後2時〜5時 於宝光寺本堂

毎月27日開催の「ほとけみち」

供養と祈願 過去と未来を今に結ぶ、永遠のいのちとなるちぎりです。

2時よりほうろく灸 本当のこころを醒ましましょう。

珈琲とお寺ご飯と仏教のお話です。
今回はこころとからだのあいだのお話

お越しくださる方は、前もってご一報ください。
3500円のご志納にて。

 

朝粥と坐禅と華賁と

2月1日(土) 早朝5時半〜7時 於宝光寺本堂

昨年12月から始めました「妙想粥」を開きます。

朝の5時〜7時の間に食するお粥は特に身心を癒すというのは、宝光寺に鎮座する七面天龍女の縁起にある通りです。※詳しくは当ブログ「宝光寺ゆかりのお粥の話」をご覧ください。

朝早く、まだまだ寒い朝ですが、ぜひ、からだとこころの調えにお越しください。

お越しの方は前日までにご一報を下さい。

朝粥と華賁(珈琲)と、坐禅で始まる朝は、格別な一日となります。

1500円のご志納にて