インサイドアウト 2 3

「人は死して後、どうなるのでしょうか?」

私は刑務所にご縁がありまして、頻繁に呼ばれて参ります。

中で生活されている方達にも信教の自由が保証されており、求めに応じて宗教者が呼ばれ、お話を聴いたり、供養をしたりいたします。法話を頼まれることもありますから、私は時折冒頭の言葉を投げかけて皆さんに質問をしてみるのです。岐阜の刑務所は比較的刑の重い方が多く、生涯を暮される方もあります。

 

子供の頃に死後の話をおとぎ話にして聞かされ、心根に死後に至るまでの想定が備わっている人、近代的に育った人は「死んだらおしまい」という意見を持つ人が多いです。

死後の世界を科学的に検証すること、哲学的、宗教的にお話することもできます。仏教信仰はいわば倫理性がしっかりした宗教ですから、私はさらにこんな質問を投げかけてみます。「死んだ後も自分の命には続きがあるでしょうか?それとも死んだら命はすっかり消滅し、他人の記憶の中に過去の姿が残るだけなのでしょうか?」と。

絶句する方、沢山の読書によって自説をお話しになる方、信仰する教えに説かれるままにお話しになる方と、様々です。

私は続けて「では、死んだら全てはそこで終わり、成し遂げた偉業も功徳も一緒に消えて無くなる、犯した罪も悪事も全ては死ぬまで隠し通し、逃げ切ればそれで帳消しになるという信心の人と、死後も続きがあって、生きている間に解決しなかったことに取り組め、また成し遂げた功徳を繰越し、犯した罪と向き合い続けるチャンスは続くと信じて生きている人と、どちらの人をあなたは信じますか?」と。

答えは明白です、嘘でも「私は続きがあると信じている人間」としての格好をつけていないと生きていくことは困難になります。

どうしても現代を生きる我々は事実を主体にものを考えてしまいます。どうしても理解したい。解らないものは受け容れない。解ったら信じるが、解らないから信じないというのは心の疫病です。

自分はこれを信じている、こうあるべきであるということが人として大切で、それに自分は取り組んでいる。自分のちっぽけな理解力になど振り回されない。私は仏菩薩の理解力を信じている。それが自分で自分を信じられる大安心であり、周りの他人から大事にされる秘訣です。

こんな話を、皆さんとても熱心にお聞きになります。塀の中である事を忘れるほどです。

 

日蓮大聖人も死後の旅路についてお書き残しになっています。初七日から始まる七日七日の道行き、五七日忌には閻魔様の御前へ参ります。そのそばには倶生神さまもおられます。その時どんな報告が出来るか?そんな意識で今を生きるのが信仰です。

辛うございました。足がすくみ泣けてくるほど怖いことがありました。それでもお釈迦様日蓮聖人様の教えを離さず、信仰にあきらめず、此経難事を覚悟してお題目を口ずさみ、倶生霊神符の御守りを肌身離さずに生き抜きました。そう胸を張って堂々と申し上げる。閻魔様も憐みつつも誉めてくださる。そして、あの不幸も、苦悩も、「ああよくやった」と、微笑をもって思い返し、自分でも褒め称えながら、ゆっくり休める時がくる。倶生神さまは大きくうなづかれることでしょう。そう確信して生きる。そうなるかどうか確かめようがないなどという心の疫病を治す法華経の信心、「心から世界は生まれる」という法華経の大真理に自分をなげうって今を生きる。この確信において堪忍できる。そんな透き通った信念が今こそ必要です。

「人は死して後、どうなるのでしょうか?」

私は刑務所にご縁がありまして、頻繁に呼ばれて参ります。

中で生活されている方達にも信教の自由が保証されており、求めに応じて宗教者が呼ばれ、お話を聴いたり、供養をしたりいたします。法話を頼まれることもありますから、私は時折冒頭の言葉を投げかけて皆さんに質問をしてみるのです。岐阜の刑務所は比較的刑の重い方が多く、生涯を暮される方もあります。

 

子供の頃に死後の話をおとぎ話にして聞かされ、心根に死後に至るまでの想定が備わっている人、近代的に育った人は「死んだらおしまい」という意見を持つ人が多いです。

死後の世界を科学的に検証すること、哲学的、宗教的にお話することもできます。仏教信仰はいわば倫理性がしっかりした宗教ですから、私はさらにこんな質問を投げかけてみます。「死んだ後も自分の命には続きがあるでしょうか?それとも死んだら命はすっかり消滅し、他人の記憶の中に過去の姿が残るだけなのでしょうか?」と。

絶句する方、沢山の読書によって自説をお話しになる方、信仰する教えに説かれるままにお話しになる方と、様々です。

私は続けて「では、死んだら全てはそこで終わり、成し遂げた偉業も功徳も一緒に消えて無くなる、犯した罪も悪事も全ては死ぬまで隠し通し、逃げ切ればそれで帳消しになるという信心の人と、死後も続きがあって、生きている間に解決しなかったことに取り組め、また成し遂げた功徳を繰越し、犯した罪と向き合い続けるチャンスは続くと信じて生きている人と、どちらの人をあなたは信じますか?」と。

答えは明白です、嘘でも「私は続きがあると信じている人間」としての格好をつけていないと生きていくことは困難になります。

どうしても現代を生きる我々は事実を主体にものを考えてしまいます。どうしても理解したい。解らないものは受け容れない。解ったら信じるが、解らないから信じないというのは心の疫病です。

自分はこれを信じている、こうあるべきであるということが人として大切で、それに自分は取り組んでいる。自分のちっぽけな理解力になど振り回されない。私は仏菩薩の理解力を信じている。それが自分で自分を信じられる大安心であり、周りの他人から大事にされる秘訣です。

こんな話を、皆さんとても熱心にお聞きになります。塀の中である事を忘れるほどです。

 

死んで後、ご本仏様、梵天帝釈四大天王、閻魔様の見前に参るその時、どんな報告が出来るか?、その傍らには倶生神さまもおられる。そういう未来を二重映しに見ながら今を生きるのが信仰です。

辛うございました。足がすくみ泣けてくるほど怖いことがありました。それでもお釈迦様日蓮聖人様の教えを離さず、信仰にあきらめず、此経難事を覚悟してお題目を口ずさみ、倶生霊神符の御守りを肌身離さずに生き抜きました。そう胸を張って堂々と申し上げる。閻魔様も憐みつつも誉めてくださる。そして、あの不幸も、苦悩も、「ああよくやった」と、微笑をもって思い返し、自分でも褒め称えながら、ゆっくり休める時がくる。倶生神さまは大きくうなづかれることでしょう。そう確信して生きる。そうなるかどうか確かめようがないなどという心の疫病を治す法華経の信心、「心から世界は生まれる」という法華経の大真理に自分をなげうって今を生きる。この確信において堪忍できる。そんな透き通った信念が今こそ必要です。

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