最近、
お坊さんが読経時に木魚を叩くのはなぜ?
というクイズが話題になっているようです。
これ、「居眠りしない為」というのが、この話題の中での正解です。
でも、それが肉体的な眠気覚ましというと、
お釈迦様からは「30点!」と諭されます。
それでも正解ではあるのですが、もったいないことです。
仏教の譬え話として、
我々人間はある意味ずっと酒に酔って酩酊しているようなもの、
そうでなかったらお釈迦様と何も変わらない。
というお話があります。
酔いつぶれて眠っているように生きている。
だから、仏様の言葉(お経)を発声し、木魚を叩いて、
自分で自分の心の目を覚ませ!
この、目を覚ますことが
修行の大事な目的となっています。
「さとる」というのは、悟とも書きますが覚とも書くわけです。
ところでなぜ叩くのは木魚なのでしょう?
魚板や魚鼓、また鰐口(わにぐち)というものが古い仏閣には吊るしてあります。
それはかつて目覚まし時計の役目を果たしていました。
これも魚たちです。
昔の人と今の我々の違いがあります。
それは、自然界から学ぶ、
周りの身近なものは全て自分に何かを教えようとしてくれている存在だ。
という確信の中に日々生活をしているかいなかです。
魚菩薩様に向かって教えを乞うておりますと、
あることに気づきます。
「あっ片時も眠らないのだ魚菩薩は、常に目覚めている仏様のようだ」という気づき。
以来、その魚から生命力と覚悟力を頂くために、魚の形をした板木や木魚を拵えて叩き、
啓発を日々得たのです。
とっちめるためのものではなく策励です。本来の姿を自覚し反れと。
この世界は常に陰と陽、明と暗、動と静というように、二つの対極の間を行き来しながら調和が保たれています。昼は明るく夜は暗いのが良いのです。動き回ってばかりいては得るものも逃します。放出と受容、積極と消極、強い柔いそれぞれに取捨択一できない価値があります。
仏菩薩は眠りながらも目覚めているのです。
良い機会と思い、今後時折この「木魚」という名前で心の「目覚め」を共有するお話をご紹介してまいりたいと思います。