私の立ち位置

説法供養
お釈迦様の教えや経典のお話を他者に伝えることをもって、恩ある人の供養をしたという習慣がかつての日本にはありました。だから日本の昔の先祖たちはこぞって教えを宗教者任せにせず学んだのです。私に僧侶としての五体と仏様の教えの真意を汲み取る智慧を与えてくれた、恩師と母の供養の為に。

 

これから述べますことは全て、仏教によって継承されてきた智慧のお話でもあります。

仏教の中でも私は法華経経典を特別な中心として考える立場であります。
その法華経とともにある仏教は「変革の時代」「乱世」といった、社会が安定しない時期、
次々と新しいものが生まれたり、無くなったりする社会、一旦決めた秩序やルールや倫理が次の日にも破られるというような時代に焦点を当てて説かれている経典です。

今、東洋の暦に従えば、時代の終盤であり、あと二十数年で新しい次の時代が始まると暦は教えています。
この終盤というのは当然これまでの秩序から次の秩序へと移り変わるわけですから、安定せずこれまであてにしていたものが今日はあてにならない、今日あてになってもいずれあてにならなくなる状況、昨日指示されたことを今日実行しても安全とは言えません。

いわゆるリサーチというものも諸手を挙げて信頼できないわけです。
つまり外部要因による分析と推測だけではかなり厳しい時代であると言えます。

何が頼りになるのか?

お釈迦様は、当てになるのは自分自身だ、自分の他に誰が頼りになるというのだ、
だからよく自分をととのえなさい。そのよくととのえた自分ほど頼りになるものはない。

こうお諭しになっています。

この「よくととのえる」というところがポイントでしょう。
でも頼りになるのは他でもない自分しかいないんだ。というのも注目すべき点です。

これは他人のせいで自分が不幸になることはないよ。
だから自分の思い通りにならないからといって人を責めれば余計に通らなくなる。

そういうコンテキストも含まれています。

自分が外から入ってくる情報をどう処理するか?
その処理するのは価値観ですが、その価値観の検証というものをしたことがあるかどうか?
そこにかかっているというお話です。

どんなにいい話を聞いても、価値観で処理しますから、その価値観がお粗末であるなら、
自分の事なのに、自分にとっても不都合な話として聞いてしまう。
にわかに信じがたい事ですが、かなりの頻度でそういうことを我々はしています。

これをお釈迦様は例え話にして、

素晴らしい医者に診察をしてもらい、薬を処方してもらっていながら、
その薬がよく効く薬で体の毒を全て出してしまうほどの効能だったが、
その経過が自分の価値観で見てみてあまり好ましくない経過だったので、
服用をやめた。

というお話です。

ホラー映画みたいな話です。
自分を不幸にする、幸せにしない首謀者は外にはいません自分の中にいます。

それに気付けるだけでも、随分と自由になります。
一朝一夕とはいきません、手間のかかる話です。
でも確実で、一度得たら失うことの方がかなり難しい。
そして今生だけでは終わりません。次ぎのこの世、オギャアと生まれた時、
周りの大人が、「よくととのえしおのれ」な方々です。

これを今風にいうと、バリューマネジメント というようです。

これが私の立ち位置です。

 

 

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