25日と27日

 

三月二十五日、新月の夜、日が変わって間もない丑の刻の了り、母は静かに穏やかに息を引き取りました。大往生でした。

『本華院寳功日壽大姉』と父が授けました。母たっての願いを叶え父が引導を渡し、家族と近親者のみでお送りしました。葬送当日の三月二十七日は母の誕生日です。

昔から亡くなった日に因んだお経をその人の生涯を示すお経として読み解いた信仰習慣があります。日蓮宗では母が逝った二十五日は観世音菩薩普門品がそれに当たります。

父の守護神も観音様ですから、それに寄り添うような母らしい最後の示し方です。

また、この観音経にはお地蔵さんが説かれており、お地蔵さんは閻魔様のこと、さらに毎月皆さんがお受けになるお守りの神様は閻魔様の補佐官でもありますから、きっと今後はそういう神様のお手伝いをして我々を見守ってくれるお役目を頂くことでしょう。

一月十日の夕方、食事をした後倒れまして、病院へ運ばれました。先生の処置よく脳梗塞は取れ、再起を期待しましたが、副作用などで肺を患い、その上にこのコロナ騒動で面会謝絶となり、気力衰え、今月十八日に施設へ移りましたが、その時にはほとんど食べる力なく、二十四日「お寺へ帰る?」と尋ねると、頷いてくれ、即連れて帰りました。

よほどお寺は心地よかったのか寝息を立ててぐっすり眠っておりました。時折目を開けては、こちらを見て口を指差すので、その度にコットンにお寺の湧き水を浸し、唇や舌を拭うと、とても満足げにしておりました。

我々家族もまさかその日のうちとは思っておりませんでしたが、午前二時頃になり少し呼吸の様子が変わり、だんだんと吸う息が浅くなり、眠ったまま自然に息を引き取りました。

十二歳よりお寺の娘となり、約七〇年。お寺のために生きた、僧侶並かそれ以上の信仰修行の人生であったと思います。

日本では古来より、先祖は神となり、畏敬なる存在となるとしてまいりました。

古い書物には「この神様は何某という人の魂が神となった」などとあります。八幡様はその象徴です。この日本伝統の信仰は仏教によってさらに具体的になりました。

母は、深い陰徳を積んで自由な魂となって、これからも宝光寺と三塚を見守ってくれることと思います。

先先代の釋日学(潮随)の時から先代潮興、そして潮叡と、宝光寺は創建以来の加持祈祷寺で御座いますから、荒行を勤めます。
日学上人の五百日のうちの二百日、父の八百日、私の三百日、合わせて千三百日の間、確かに行をする我々も大変で、命の限界を彷徨う行をします。

しかし、それは一人ではできません。外に見守り支える人あっての荒行です。
それを千三百日、生涯に十三年も勤めることは、望んでもできないことでしょうし、お役目を与えられたとて、全うできることではありません。

そのような母の深く強い信仰をしみじみ憶う時、自分の悩みをちっぽけに思い、至らなさを拝み、そしてより深い信仰へと突き動かされます。

R仁・参・廿七 宝光寺潮叡

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