はじめまして

大垣市三塚町 宝光寺です。氏神さまと湧水から始まり、鬼門ラインを守るお寺となり今に至ります。

そんなこのお寺の縁起に随って色々話していきたいと思います。

よろしくお願いします。

インサイドアウト 2 3

「人は死して後、どうなるのでしょうか?」

私は刑務所にご縁がありまして、頻繁に呼ばれて参ります。

中で生活されている方達にも信教の自由が保証されており、求めに応じて宗教者が呼ばれ、お話を聴いたり、供養をしたりいたします。法話を頼まれることもありますから、私は時折冒頭の言葉を投げかけて皆さんに質問をしてみるのです。岐阜の刑務所は比較的刑の重い方が多く、生涯を暮される方もあります。

 

子供の頃に死後の話をおとぎ話にして聞かされ、心根に死後に至るまでの想定が備わっている人、近代的に育った人は「死んだらおしまい」という意見を持つ人が多いです。

死後の世界を科学的に検証すること、哲学的、宗教的にお話することもできます。仏教信仰はいわば倫理性がしっかりした宗教ですから、私はさらにこんな質問を投げかけてみます。「死んだ後も自分の命には続きがあるでしょうか?それとも死んだら命はすっかり消滅し、他人の記憶の中に過去の姿が残るだけなのでしょうか?」と。

絶句する方、沢山の読書によって自説をお話しになる方、信仰する教えに説かれるままにお話しになる方と、様々です。

私は続けて「では、死んだら全てはそこで終わり、成し遂げた偉業も功徳も一緒に消えて無くなる、犯した罪も悪事も全ては死ぬまで隠し通し、逃げ切ればそれで帳消しになるという信心の人と、死後も続きがあって、生きている間に解決しなかったことに取り組め、また成し遂げた功徳を繰越し、犯した罪と向き合い続けるチャンスは続くと信じて生きている人と、どちらの人をあなたは信じますか?」と。

答えは明白です、嘘でも「私は続きがあると信じている人間」としての格好をつけていないと生きていくことは困難になります。

どうしても現代を生きる我々は事実を主体にものを考えてしまいます。どうしても理解したい。解らないものは受け容れない。解ったら信じるが、解らないから信じないというのは心の疫病です。

自分はこれを信じている、こうあるべきであるということが人として大切で、それに自分は取り組んでいる。自分のちっぽけな理解力になど振り回されない。私は仏菩薩の理解力を信じている。それが自分で自分を信じられる大安心であり、周りの他人から大事にされる秘訣です。

こんな話を、皆さんとても熱心にお聞きになります。塀の中である事を忘れるほどです。

 

日蓮大聖人も死後の旅路についてお書き残しになっています。初七日から始まる七日七日の道行き、五七日忌には閻魔様の御前へ参ります。そのそばには倶生神さまもおられます。その時どんな報告が出来るか?そんな意識で今を生きるのが信仰です。

辛うございました。足がすくみ泣けてくるほど怖いことがありました。それでもお釈迦様日蓮聖人様の教えを離さず、信仰にあきらめず、此経難事を覚悟してお題目を口ずさみ、倶生霊神符の御守りを肌身離さずに生き抜きました。そう胸を張って堂々と申し上げる。閻魔様も憐みつつも誉めてくださる。そして、あの不幸も、苦悩も、「ああよくやった」と、微笑をもって思い返し、自分でも褒め称えながら、ゆっくり休める時がくる。倶生神さまは大きくうなづかれることでしょう。そう確信して生きる。そうなるかどうか確かめようがないなどという心の疫病を治す法華経の信心、「心から世界は生まれる」という法華経の大真理に自分をなげうって今を生きる。この確信において堪忍できる。そんな透き通った信念が今こそ必要です。

「人は死して後、どうなるのでしょうか?」

私は刑務所にご縁がありまして、頻繁に呼ばれて参ります。

中で生活されている方達にも信教の自由が保証されており、求めに応じて宗教者が呼ばれ、お話を聴いたり、供養をしたりいたします。法話を頼まれることもありますから、私は時折冒頭の言葉を投げかけて皆さんに質問をしてみるのです。岐阜の刑務所は比較的刑の重い方が多く、生涯を暮される方もあります。

 

子供の頃に死後の話をおとぎ話にして聞かされ、心根に死後に至るまでの想定が備わっている人、近代的に育った人は「死んだらおしまい」という意見を持つ人が多いです。

死後の世界を科学的に検証すること、哲学的、宗教的にお話することもできます。仏教信仰はいわば倫理性がしっかりした宗教ですから、私はさらにこんな質問を投げかけてみます。「死んだ後も自分の命には続きがあるでしょうか?それとも死んだら命はすっかり消滅し、他人の記憶の中に過去の姿が残るだけなのでしょうか?」と。

絶句する方、沢山の読書によって自説をお話しになる方、信仰する教えに説かれるままにお話しになる方と、様々です。

私は続けて「では、死んだら全てはそこで終わり、成し遂げた偉業も功徳も一緒に消えて無くなる、犯した罪も悪事も全ては死ぬまで隠し通し、逃げ切ればそれで帳消しになるという信心の人と、死後も続きがあって、生きている間に解決しなかったことに取り組め、また成し遂げた功徳を繰越し、犯した罪と向き合い続けるチャンスは続くと信じて生きている人と、どちらの人をあなたは信じますか?」と。

答えは明白です、嘘でも「私は続きがあると信じている人間」としての格好をつけていないと生きていくことは困難になります。

どうしても現代を生きる我々は事実を主体にものを考えてしまいます。どうしても理解したい。解らないものは受け容れない。解ったら信じるが、解らないから信じないというのは心の疫病です。

自分はこれを信じている、こうあるべきであるということが人として大切で、それに自分は取り組んでいる。自分のちっぽけな理解力になど振り回されない。私は仏菩薩の理解力を信じている。それが自分で自分を信じられる大安心であり、周りの他人から大事にされる秘訣です。

こんな話を、皆さんとても熱心にお聞きになります。塀の中である事を忘れるほどです。

 

死んで後、ご本仏様、梵天帝釈四大天王、閻魔様の見前に参るその時、どんな報告が出来るか?、その傍らには倶生神さまもおられる。そういう未来を二重映しに見ながら今を生きるのが信仰です。

辛うございました。足がすくみ泣けてくるほど怖いことがありました。それでもお釈迦様日蓮聖人様の教えを離さず、信仰にあきらめず、此経難事を覚悟してお題目を口ずさみ、倶生霊神符の御守りを肌身離さずに生き抜きました。そう胸を張って堂々と申し上げる。閻魔様も憐みつつも誉めてくださる。そして、あの不幸も、苦悩も、「ああよくやった」と、微笑をもって思い返し、自分でも褒め称えながら、ゆっくり休める時がくる。倶生神さまは大きくうなづかれることでしょう。そう確信して生きる。そうなるかどうか確かめようがないなどという心の疫病を治す法華経の信心、「心から世界は生まれる」という法華経の大真理に自分をなげうって今を生きる。この確信において堪忍できる。そんな透き通った信念が今こそ必要です。

インサイドアウト 1

ある業界紙からの依頼を受けて書いた原稿が検閲で三つの話題の繋がりがわかりにくという理由で書き換え要請がきた原稿、ここにお蔵入りが脇から出てきたというよくある心理現象インサイドアウトします。ほんと繋がりわからん。そうかな?などいろんなアンラーニングにご活用ください。

 

揺らぐ木草、流るる水は仏様

今年初めから始まった騒動、原因へ遡ってみれば、貧困格差に辿り着きます。風が吹けば桶屋が儲かるような話ですが、確かにそうなのです。世界最古の文学作品といわれる「ギルガメッシュ」の物語に基盤を置く現代社会では、自然界を忌み嫌うものと捉え、人間が退治または整備しなければならないものという前提があります。一方日本的社会基盤は「もののけ姫」や「風の谷のナウシカ」です。自然界そのものが報恩の対象であり、人間が自由に出来ないもの。すべての宗教自体、日本的でしたが、約三六〇年ほど前から動向は変わり、世界に広がりました。

ウイルスも元は自然界の奥にいて、人がじかに接する事はありませんでした。日本でいう猪や鹿や熊の獣害のように住処を脅かされ、人間社会に新たな住処を求めて来ました。

宮沢賢治さんが「世界がぜんたい幸福になれなければ、個人の幸福はありえない」と叫んだ事、深く実感された方々も少なくないでしょう。

この騒動は一方で、グローバル資本と南北貧困格差と環境破壊温暖化の問題解決の緒を与えています。世界の大気や水が劇的に綺麗になっている。個々の取り組みの総和は大きい、日蓮大聖人がご指南された世直しの法を実感いたします。

 

転我邪心の心得

日蓮大聖人は「正しい教えは神や人を養う良薬となる、しかし、良薬の名前だけ用いて、儲けを増やそうと水で薄めてかさ増ししたり、別な成分を加えれば毒薬になるように、せっかく久遠の釈尊が、良き薬草を調合して良薬を処方されるように真実を説かれたのに、それを毒薬のようにしてしまった、それによって養われた神々は守護する力を失うどころか、邪神となってしまった」と説明されています。

皆さんは、毎月倶生神さまのお守りを拝受し、身に着けて日々の安穏を得ておられます。その倶生神さまも諸天善神と同様に皆様がお唱えになる法華経によって養われています。

疫病と疫神と私の関係です。

 

抜苦の信仰

人は死して後、五七日忌には閻魔様のところへ行きます。そのそばには倶生神さまもおられます。その時どんな報告が出来るか?そんな意識で今を生きるというのが信仰です。

辛うございました。足がすくみ泣けてくるほど怖いことがありました。それでもお釈迦様日蓮聖人様の教えを離さず、信仰にあきらめず、此経難事を覚悟してお題目を口ずさみ、お自我偈を繰り返しお唱えし、すべてのものから仏様を彫り出す工夫をして一生を生き抜きました。そう胸を張って堂々と申し上げる。閻魔様も憐みつつも誉めてくださる。そして、あの不幸も、苦悩も、「ああよくやった」と、微笑をもって思い返し、自分で自分を褒め称えながら、ゆっくり休める時がくる。倶生神さまは大きくうなづかれることでしょう。そう確信して生きる。そうなるかどうか確かめようがないなどという理性的疫病はもうやめて、「心から世界は生まれる」という法華経の大真理に自分をなげうって今を生きる。この確信において堪忍できる。そんな美しい心が今こそ必要なのであろうとつくづく思うのです。

信仰はどんな絶望の淵にも咲く花を見つける目を与えてくださいます。どんな苦々しい毒の中からも薬を嗅ぎ分ける鼻を与えてくださいます。

この騒動の最中、母を亡くし死後の道を、教えを手掛かりに共に歩んだゆえの気づきを、ご紹介致しました。ありがとうございました。

木魚 0

 

最近、
お坊さんが読経時に木魚を叩くのはなぜ?
というクイズが話題になっているようです。

これ、「居眠りしない為」というのが、この話題の中での正解です。

でも、それが肉体的な眠気覚ましというと、
お釈迦様からは「30点!」と諭されます。

それでも正解ではあるのですが、もったいないことです。

仏教の譬え話として、
我々人間はある意味ずっと酒に酔って酩酊しているようなもの、
そうでなかったらお釈迦様と何も変わらない。

というお話があります。

酔いつぶれて眠っているように生きている。

だから、仏様の言葉(お経)を発声し、木魚を叩いて、
自分で自分の心の目を覚ませ!

この、目を覚ますことが
修行の大事な目的となっています。

「さとる」というのは、悟とも書きますが覚とも書くわけです。

ところでなぜ叩くのは木魚なのでしょう?

魚板や魚鼓、また鰐口(わにぐち)というものが古い仏閣には吊るしてあります。
それはかつて目覚まし時計の役目を果たしていました。

これも魚たちです。

昔の人と今の我々の違いがあります。
それは、自然界から学ぶ、
周りの身近なものは全て自分に何かを教えようとしてくれている存在だ。

という確信の中に日々生活をしているかいなかです。

魚菩薩様に向かって教えを乞うておりますと、
あることに気づきます。
「あっ片時も眠らないのだ魚菩薩は、常に目覚めている仏様のようだ」という気づき。

以来、その魚から生命力と覚悟力を頂くために、魚の形をした板木や木魚を拵えて叩き、
啓発を日々得たのです。

とっちめるためのものではなく策励です。本来の姿を自覚し反れと。

この世界は常に陰と陽、明と暗、動と静というように、二つの対極の間を行き来しながら調和が保たれています。昼は明るく夜は暗いのが良いのです。動き回ってばかりいては得るものも逃します。放出と受容、積極と消極、強い柔いそれぞれに取捨択一できない価値があります。

仏菩薩は眠りながらも目覚めているのです。

良い機会と思い、今後時折この「木魚」という名前で心の「目覚め」を共有するお話をご紹介してまいりたいと思います。

 

モノからコトへ

説法供養 5

親(主・師)孝行、したいときに親(主・師)はなし
というコトわざは、後悔のイメージが強い。

本来は、偉大な親(両親や親のような人)や主(雇用主や主人)、師匠の言葉や行為は随分後になってからその真意に気づく、という気づき。偉大であるほど時間をかけて人生に浮上してくる。
また、偉大な子(従・弟子)ほど、親(主・師)の崇高さが遠く遠く長い年月にわたり、子孫にまで被って深い気づきが継続していく。
まさに語るはカブレル、謳うはウッタエカケルが語源の通りだ。

次のこの世に生まれ変わってきたときまだ、前のこの世での自分の偉大さが語られている。
報恩の巽風が吹いている。

「親孝行、したいときに親はなし」と、自分も言えるようになったんだなぁ
と、自らの成長を自分で自分を褒めるという、アイディンティティが確立する
これが仏教でいう安心立命(アンジンリュウミョウ)の境地です。
自己承認欲求という他人に認めてもらわないと気が済まない欲求は、
自分のことをよく知っている自分から逃れようとする脇道。
そこから抜け出して透明で誠実に生き始める入門編です。

 

さて、

人類の長い長い潮流がひとところに集まり密になっている今

狩猟採集的 1万年〜3万年前まで
農耕備蓄的 1万年
工業資本的 西洋では約360年 日本では約180年
情報格差的 おおよそ60年

人類が辿ってきたそれぞれの時代の主流と産業は
断片的にその時代その時代だけのものではなく
前の時代のモノのが次の時代のコトにうまく乗り合わせ
時代を超えて生き延びている

そうして今 この人類700万年?400万年?30万年?3万年?の潮流が
近代という都市密集型能率効率最優先文化によって共存している

それぞれの時代の特徴を紐解いてゆけば
自分が何時代的であるか一目瞭然

いわば 人類史から読み解くバイオグラフィー

明らかな事は
前時代のモノは次時代のコトにうまく乗り合わせることで
時代を超えるということ
これが新時代に生き残る重要素

今 まさに次時代の扉がフルオープンになった

然るに
ここで仕損じるか仕損じないかは
モノはそのまま抱き抱え続けてもいいから
コトの方は手放すということ
これで決まる

次の時代はいかなるモノゴトが主流か?
おおよそ見え始めているが
それも現時代のコトの主流の中から生まれてくる

まさに激動の乱世

先師先哲 父母師匠がやってきた
コトに乗っかっていると共倒れる
モノを引き取りコトを自ら見出していく
そこに恩ある人を護っていく活路がある

全ては自分の思いと考え(こころ)
起きたモノは選べない
起きたコトは選ぶことができる
ただそこには心があるだけ
チャンスは心にある 心は環境にある

昔の聖者はこれを

月こそ心よ 花こそ心よ

と詠んだ

見えているものは
他人ではなく自分なのだ
自分のことは観察できても
人のことは尋ねるしかない
この自他の関係に徹底して対話する

己こそ己のよるべ 己をおいて誰によるべぞ
よく調えし己こそ まこと得難きよるべなり  ダンマパダ

この前提(前庭)を抜けたところに
大人の入り口がある

その入り口で待つしかないのか

 

 

宝光寺潮叡 拝

 

 

7月15日をむかえて

説法供養 4

7月15日は、お越しになっていたご先祖様がまたお帰りになる日です。
また、仏教では僧侶が修行を終える満行の日。4月8日から百日目です。
年に一度この時だけ修行僧は自分のさとりを語り分かち合いました。

最清浄法界より流るるところの正聞薫習
種子となるゆえに出世心を生ずる事を得

これは仏教界では有名なアサンガ・バスバンドゥ兄弟の言葉です。
兄弟で菩薩になりました。

雪山(せっせん・ヒマラヤ)の西にあたる
今インドと中国の国境で騒がしいカシミールにその修行の聖地がありました。

ヒマラヤと聞くとスキースノボ愛好家の聖地、スポーツ用品店でもありますが、
この「ヒマラヤ」という言葉は直訳すると「雪の蔵」です。
雪がヒマ、蔵はアーラヤです。人には意識の蔵があるという教えを深く追求しフィールドワークで確かめた方がこの兄弟でもあります。

仏教心理学と呼ばれていますし、西洋の高名な哲学者や分析家で有名なユングなども深く研究をしたとのことです。

最清浄法界というのは、この上ない清浄な領域、いわゆる仏界ですね。天国からまだ四つくらい次元が上です。その領域は真実で満たされているというのですが、どこにあるか?は説明が難しく、どこからいけるかであれば話は早いわけです。
人には五感があり意識がある。そして自我の領域がある、その更に奥にアーラヤ識があります。そのアーラヤ識に対して最清浄法界の声を掛けると扉が開いて、この世界に通じるというのが仏教の基本的認識です。どの教えも宗派も、ここにおいては一致しています。
もし、うちの宗派は違う!という話が出てきたら、それは仏教ではない可能性があります。
そんな話は知らん!ということはしょっちゅうあります。

冒頭の菩薩兄弟の言葉に、正薫習とあります。
これは真実の言葉を繰り返し聞いて煙に燻された「いぶりがっこ」のようにその言葉の最清浄の香がその人の心と身体に染み付いていくと出世心(菩薩の心)に満たされ、その人の生活環境が菩薩界もしくは仏界になってくる。行くのではなく、今の住処のステージが上がるわけです。

御念仏を唱える、繰り返し真言を念じるというのもこの教えからきています。
その唱える真実の言葉は切符のようなもので、行き先が決まっています。
この念仏はあそこ行き、この真言はここ行きと。
だから先に「どこ行きですか?」とお坊さんに尋ねる必要があります。
当たり前のことですよね。インドへ行くのにパリ行きのチケットを買う人はいません。

では真実の言葉とは?

これには祈願 プルヴァ・プラニダーナ、直訳で前におく、目的のことですね。
お寺や神社で受けるお札やお護りはこの作法のためにあります。
お釈迦様はさとりを開かれました。そのさとりの言葉が後に本当に出来事として起きた。
これが真実の言葉の誕生です。

仏様や菩薩さまが他の精霊と違うところです。

前に聖者が語ったことが、後に本当に起きた。
これが奇跡です。

自分が目的を立てて、それを何年もかけて成就した。
その立てた目的は真実の言葉になる。
なぜそんなに真実の言葉にこだわるのかと、
真実の言葉には生命力が宿るからです。
その言葉を声にしたものは何百何千年後であっても、
生命力を取り出すことができるのです。

日本仏教法華仏教では、
特にこのことを重き大切な修行としてきました。

つまり
先師や師匠が語ったこと、願ったもの、描いた人物が後にほんとに歴史上に出現するということです。これが最上の報恩感謝です。

師匠の受け売り、私もほとんどはこればっかりです。
それでいいと思います。受け売りが一番。
でも語るだけでは足りない。
何が足りないか?そんなに感謝していないということを自ら暴いているようなものだからです。

人というものは、深い感謝をしていたら、その方が大切にしてきたこと、その方が命をかけて伝えたこと、広めたこと、その内容を自ら深く体得し、体験したいというそこ知れぬ欲求に翻弄されます。それが人というもの。
身から滲み出る生命力を持ってこれを人に伝えたい、その言葉が真実であったことを現実に身をもって表したい。そう欲求せずにはおれないのです。

そう自分がしている事実をみて
「ああ、自分は深い感謝の念を持てているんだな」と確認する。

これも真実です。

そういう境地ではないかどうか、それは自分でよくわかります。
そういう人はスッと身を引いて、本気の深い感謝で生きている人に道と席を譲るべきです。
そういう時が今きているのだと思います。

 

 

 

まなびのひけつ

説法供養 3

 

学びには2つあります。

マナビはマネビ ナラウはナラブ
真似る 同じようにする という姿です

それを叶えるためには 向こうからこっちへ知識や情報を正確に移動させること
向こうの姿をこっちへ写す 映すことが大事ですが
これがなかなか簡単ではないのです

そもそも向こうからこっちへ情報を移動させていると思っている
実際にはそういう単純なことが起きていない
こちらにあるものがほとんど支配しています

それを日本では「うつわ」と表現してきました

うつわの学び と うつわに容れるものを収集する学び

いくら容れるものを収集してもうつわが整っていなければ
ほとんどがこぼれ落ちてしまい、また別なものになって収まってしまう

同じ話を聴いても全く違うものとして受け取っている
表面上の言葉だけをとって講師先生に
「ええ そんなこと言ってないよ」「ええ そんなふうに受け取りますの」
こういうことが起きるのは全てこのうつわに根拠があります

こういうことを いよいよ
科学者から言い出しました

仏教をはじめ 宗教の世界 思想哲学の世界ではずっと言われてきたことです
ですから今 科学と宗教と哲学は人類が抱えるこの大きな問題において一致しています

まず
情報や知識を収集する前に それを収める「思考のうつわ」
自らの内なるうつわを精度の高いものによく調える学びが必要です
精度が高いというのは物差しや秤の目盛りが正確だということです
思考のコンパスがまん丸な円を描くということです

我々は自分の思考 思想 価値観というものを検証をする必要があるのです

思考の流れをわかりやすくすれば
仮説→実証→証明 ということをしています

あらかじめ予測をする「仮説」
その予測に基づいて実験をする「実証」
その実験に基づき真相を明らかにする「証明」

こう論理立てていなくても我々は常にこの流れを瞬時に思考しています

科学者の気づきは
この仮説 実証 証明はどれも あるものに支配されている
というものです

それをパラダイムと呼び
その影響を常に受けていることを「パラダイム効果」と呼びました

一言で言うと
「立てた仮説は必ずパラダイム効果により証明される」
と言うことです
しかし その証明はこの世界の真相 目の前の現実を言い当てた証明とは言えない

いくら誠実に注意深く知識や情報を集めようともパラダイム効果によって
自分の都合のいいように聞いてしまう
つまりその情報や知識を与えてくれたオリジナル(先生)のものとは
全く違う情報や知識として取り込んでしまうということです

講師先生のせいにして自分の保身をするのは恥ずかしいことなのです
大体は「この先生嫌い」と思う先生が自分にとって大事な先生であると洞察して外れません
ほんとうの学びを成し遂げる人は皆ここが凡人と違うのです

自分のパラダイムが見るものしか見えず
自分のパラダイムが聞くものしか聞こえない
なんと!思考理性ばかりでなく情緒も五感六感までもパラダイム効果を受けているのです

これがうつわを整える学びが最も大事な理由です

講座のスタイルに二つあるとも言えます
知識や情報をどんどんこっちからあっちへと送る講座と
知識や情報を通してそれを正確に受け取るためのうつわを形成する講座

よくいう 魚を与えるか魚の獲り方を教えるか の例えのアレです

もう一つ
どんな講座であろうともうつわを育てる学び方をしている人は
いかなる学び舎であってもそこで正確な目盛りを持つうつわを得ることができます
これほんとうの菩薩 ほんとうの仏様の境地です

明治以降の近代教育というものは
知識情報をどんどん増やす教育法でした
ほとんどうつわの教育をしてこなかったのです
ですから この話自体が何のことかさっぱり理解ができない
という方が多いと思います

しかし 今起きている問題 時代の変革時期は
パラダイムを変える必要に迫られています
ですから 学びについて学ぶ 考えについて考えることが大事な時です

パラダイム効果から自分を解き放つ方法
それをお釈迦様は二千数百年後の未来の我々のために説き置かれました
それが法華経という経典となっているのです

これを共に学び得る道場を作りたい そう念願しております

法華経の中に仏様はあらゆる姿を示してあなたのそばにいる
というお話が出てきます
観音様もそうですね

パラダイム効果が解けるとヨガ行者のような修行をしなくても
父母からいただいた極々平凡な肉眼であって多くの仏を見、菩薩に触れ流ことができるのです

 

対話を提案してきた仏教

 

説法供養 2

 

昔、「お堂や仏壇から仏教が開放されるとき」
というお話を聞いたときはまさに青天の霹靂でしたが、

どうやら、そうなっていく潮流が見えてきました。

お釈迦様や各宗派の祖師にいよいよ人類が追いついてきたといったら、叱られそうですが、
それだけ直面している問題の障壁が高いほど、やはりより高い知性をもって当たらねばなりませんから、そういうことなのでしょう。

仏教を話題にする上での明白な前提としては「自分ことを知る」
仏教は自分を知るために紐解くものである。ということです。
反対を申し上げておくとわかりやすいのですが、それは、自分の思うように他者を説得したり、責め立てたりする材料、自分の身の保身に使うということをしないということです。

仏教から頂いた知性で人を責める。
自分の自己正当化の裏付けとして用いる。
自我の欲求を叶えるために習学する。

これは仏教の仏教的受け取り方ではないということが、当初からのトリセツでした。

名高る賢者や祖師がかなりいいところまで行きながら究極の悟りに気付けないで終わったという話がたくさんありますが、これもこの初動初心を欠いたためです。

でもこの話は近代社会においてチンプンカンプンなのです。
不肖私も少なからず近代教育のお世話になりましたから、これにナルホド!と膝を打つまでに時間を要しました。

お坊さんでもそうなのです。珍しくないのが現代の真相です。
ですら、事態は重大ですが、軽やかに易しく受け止めていくほかありません。

20世紀になってようやく近代社会、近代思想、近代教育の中から「これおかしいよねぇ」という声が上がり始めました。
どういうことかというと、「知性を高めれば高めるほど、理解力が増していく、認知力が増していくはずなのに? どうも実際にはみんな逆行している、なぜ?」という希望の裂け目が近代社会の中から生まれたのです。

人は 理解が深まれば深まるほど、没交渉になっていくふしぎ

離婚は当人たちにその責任はなかった!! 衝撃のスクープ!

この真相を掴むのは、かなり至難の技ですが、事実は事実です。

ところで
今年はどうやらそのふしぎな魔法から社会が脱楽し始めたと見えるのです。

この真相が分かっていたのはもう随分前、短く見積もっても50年は経っています。
しかし、分かっているというだけでは変わらないのだということもこの50年が語っています。

一言で言ってしまえば「取捨択一の思考法」が世の中の混乱の根源要因ということ。

え〜、じゃあどうやって決済するの〜。
それを身に付けるのは至難の技です。しかし事実は事実。

コロナウイルスの問題は、南北貧困格差という人と人を二つに分けて、一方にだけ価値(勝ち)を与えた。一方が勝ち取って良いと世論が認めてきた。負けてどんどん貧困が深まっていく人たちの事実にモザイクをかけて。これがウイルスが我々のそばにきてお近づきになったわけじゃないですか。

アメリカを中心に大騒動になっている問題。世界的にデモが起きていること。
パリもかなり緊迫しているようです。
これも「取捨択一の思考法」によって長年続けられてきた一方を採って一方を切り捨てるその思考法に基づく日常の何百年の積み重ねの上に起きている出来事です。

仏教ではこの「取捨択一の思考法」が何より慎まねばならない行為であると説いています。
これが世界を滅亡させる根源的要因だからと。

どんなに徳を積んで、命の力を高めて、多くの人を救済しても、この思考法である限り
「ほんとうのさいわい」はないと。

かと言って、じゃあどうする?と問われて即答できるほど容易な問題でもありません。

ですから、心ある方々とぜ新しい思考のモデルについて勉強し、見出していきたいと思っています。

そのための大きな手がかりとなるのが「対話」という出逢い方なのです。

私の立ち位置

説法供養
お釈迦様の教えや経典のお話を他者に伝えることをもって、恩ある人の供養をしたという習慣がかつての日本にはありました。だから日本の昔の先祖たちはこぞって教えを宗教者任せにせず学んだのです。私に僧侶としての五体と仏様の教えの真意を汲み取る智慧を与えてくれた、恩師と母の供養の為に。

 

これから述べますことは全て、仏教によって継承されてきた智慧のお話でもあります。

仏教の中でも私は法華経経典を特別な中心として考える立場であります。
その法華経とともにある仏教は「変革の時代」「乱世」といった、社会が安定しない時期、
次々と新しいものが生まれたり、無くなったりする社会、一旦決めた秩序やルールや倫理が次の日にも破られるというような時代に焦点を当てて説かれている経典です。

今、東洋の暦に従えば、時代の終盤であり、あと二十数年で新しい次の時代が始まると暦は教えています。
この終盤というのは当然これまでの秩序から次の秩序へと移り変わるわけですから、安定せずこれまであてにしていたものが今日はあてにならない、今日あてになってもいずれあてにならなくなる状況、昨日指示されたことを今日実行しても安全とは言えません。

いわゆるリサーチというものも諸手を挙げて信頼できないわけです。
つまり外部要因による分析と推測だけではかなり厳しい時代であると言えます。

何が頼りになるのか?

お釈迦様は、当てになるのは自分自身だ、自分の他に誰が頼りになるというのだ、
だからよく自分をととのえなさい。そのよくととのえた自分ほど頼りになるものはない。

こうお諭しになっています。

この「よくととのえる」というところがポイントでしょう。
でも頼りになるのは他でもない自分しかいないんだ。というのも注目すべき点です。

これは他人のせいで自分が不幸になることはないよ。
だから自分の思い通りにならないからといって人を責めれば余計に通らなくなる。

そういうコンテキストも含まれています。

自分が外から入ってくる情報をどう処理するか?
その処理するのは価値観ですが、その価値観の検証というものをしたことがあるかどうか?
そこにかかっているというお話です。

どんなにいい話を聞いても、価値観で処理しますから、その価値観がお粗末であるなら、
自分の事なのに、自分にとっても不都合な話として聞いてしまう。
にわかに信じがたい事ですが、かなりの頻度でそういうことを我々はしています。

これをお釈迦様は例え話にして、

素晴らしい医者に診察をしてもらい、薬を処方してもらっていながら、
その薬がよく効く薬で体の毒を全て出してしまうほどの効能だったが、
その経過が自分の価値観で見てみてあまり好ましくない経過だったので、
服用をやめた。

というお話です。

ホラー映画みたいな話です。
自分を不幸にする、幸せにしない首謀者は外にはいません自分の中にいます。

それに気付けるだけでも、随分と自由になります。
一朝一夕とはいきません、手間のかかる話です。
でも確実で、一度得たら失うことの方がかなり難しい。
そして今生だけでは終わりません。次ぎのこの世、オギャアと生まれた時、
周りの大人が、「よくととのえしおのれ」な方々です。

これを今風にいうと、バリューマネジメント というようです。

これが私の立ち位置です。

 

 

確実に未来を掴む

変革の世が現実味となった今、確実に未来を掴むための第一義は、2500年も前に、すでに、お釈迦様が明らかにされています。それに従って、一つの読み解きと指針を立ててみたいと思います。

経世済民を営む
資本主義、近代社会というものの限界に直面し、新時代を意識する今、宗教というものはそこにどう参加するのか?参加すべきことを前提とし、寺院の社会的役割の基本概念について考察した。

産業の基盤
「神様仏様っているの?」という素直な子供の質問にどう答えるかということは、些細なことの様で、その子供の人生において重要な問いであり、大人の答え次第で子の人生が大きく変わることは明らかである。

宗教や仏教の活動の流れを眺望的に捉える時、自然の恵みとの関係性に触れることになる。

布施とは人と人の間での行為という認識が先立つが、実は自然界からの布施を我々は受けずしては一瞬たりとも生活は出来ない。

その圧倒的な布施力の前にはただひたすら額ずき拝む外なかったこと、祖先が宗教を発見して以来、今でも変わりはない。

また、人間力として、その大いなる存在からの布施と受け取った知性と感性があったが、約360年ほど前に出現した近代文明はこれに対する否定的思想性を育てる傾向をもっていた。これは、ギルガメッシュともののけ姫の対話において見出せるものである。

 

世界的にどの宗教においても太陽信仰を取り入れていることは明らかである。かつては宗教の力をもって取り出され、また取り込まれてきた。言い換えればその力を安全で恵み深い生命力に交換する力をもっている存在への畏敬の念が宗教となった。それから外れ独自に自然力を取り込むルートを開発したのを近代科学であると呼ぶ。それが本格的に始まったのが約360年前である。そしてその思想性における一つの結果として福島原発事故がある。

日本とはそういう意味では不思議な国である。一方では国神として天照大神を祀り、一方ではその祖神から承ったエネルギー交換の神秘を捨て、新しいルートを採用してきた。横を向いて礼拝しているような姿である。

 

宗教は大いなる恩恵を無償で与え続けてくださる存在に対しての報恩ということであり、また、その圧倒的恩恵は直接受け取ることはできない故に、その媒介者、インターフェースなる存在者に対して、特に意識を向けていく、これはいわば、魂の縦軸であり、一方で肉体的横軸と言える。

 

原発による脅威と今始まったコビット19の脅威はこの縦か横かの違いあれど、同じ文脈の中で捉えることができる。

しかるにこの事態を通して我々宗教者の今後を考える時期でもあるとの地点に立てるなら、新たな地平は見えてくる。

これは宗教者に限らず、多くの啓蒙指導者、鑑定者、教育者において共通の理念となる。

 

教化には、自ら翻訳者、もしくは交換者となる道と、優れた翻訳者、交換者に帰依してその威力を頂いて伝えるという二種類あると整理できる。

今、後者における構造が崩壊し、前者における活動の活性化、もしくは後者における活動の再構築を迫られている状態である。

ただし、これまでとは明らかに違うところは、魔術化は好まれないということ。

 

産業に第1次から順にある通り、宗教活動においても、第1次~第5次くらいまでを整理してその構造を見える化し、役割を明確化することは宗教を組織的に纏めるためには必要なことだろう。

おそらく社会的宗教活動におけるそのほとんどの次元においては、時間差はあれどコモディティ化される。専門家として確立していくには第1次であり、翻訳者、交換者であることを求められる。

 

人類が宗教を発見して以来、大いなる存在との付き合い方は、表面的にはよく似ているが明らかにその意図は二分されていた。一方はその存在を支配するまたは打ち負かすということ。もう一方はそれに随いまた一部として生きようとする意図があった。

当時は国のまつりごとにおいて、亀卜や太占による意思や先行きの読み取りをし、それに随い令を扱っていた、数千年をへた今も、依るモノが変更されただけで、国家の指針を立てる方法論、応対辞令は変わらない。いわば魔術的対応である。それをどうするか?。仏教も儒教もお釈迦様、孔子様の当初よりずっとその課題と向き合ってきている。

新しい時代へと社会体制が変更されるならば、新しいパラダイムが生まれて、そこへシフトされていく。そこでは「パラダイム効果」、仏教でいう「これまでのサンスカーラの影響」についてを共有しなければ、パラダイムシフトを遂げることが出来ない。パラダイムシフトが出来なければ、新しい社会に適応出来ない。適応できなければその社会においての役割を果たす事は出来ないどころか、自立したひとりの生活者たりえることすら出来ない。

パラダイムとは理性や意識のみならず、五感の作用までも管理している。

思考も感情も実はこのパラダイムによって管理し支配されているという真相がさとりである。
パラダイムの検証こそ、新しい社会において自分が利益を得て社会的命を獲得するための確実な第一義であることは間違いない。

25日と27日

 

三月二十五日、新月の夜、日が変わって間もない丑の刻の了り、母は静かに穏やかに息を引き取りました。大往生でした。

『本華院寳功日壽大姉』と父が授けました。母たっての願いを叶え父が引導を渡し、家族と近親者のみでお送りしました。葬送当日の三月二十七日は母の誕生日です。

昔から亡くなった日に因んだお経をその人の生涯を示すお経として読み解いた信仰習慣があります。日蓮宗では母が逝った二十五日は観世音菩薩普門品がそれに当たります。

父の守護神も観音様ですから、それに寄り添うような母らしい最後の示し方です。

また、この観音経にはお地蔵さんが説かれており、お地蔵さんは閻魔様のこと、さらに毎月皆さんがお受けになるお守りの神様は閻魔様の補佐官でもありますから、きっと今後はそういう神様のお手伝いをして我々を見守ってくれるお役目を頂くことでしょう。

一月十日の夕方、食事をした後倒れまして、病院へ運ばれました。先生の処置よく脳梗塞は取れ、再起を期待しましたが、副作用などで肺を患い、その上にこのコロナ騒動で面会謝絶となり、気力衰え、今月十八日に施設へ移りましたが、その時にはほとんど食べる力なく、二十四日「お寺へ帰る?」と尋ねると、頷いてくれ、即連れて帰りました。

よほどお寺は心地よかったのか寝息を立ててぐっすり眠っておりました。時折目を開けては、こちらを見て口を指差すので、その度にコットンにお寺の湧き水を浸し、唇や舌を拭うと、とても満足げにしておりました。

我々家族もまさかその日のうちとは思っておりませんでしたが、午前二時頃になり少し呼吸の様子が変わり、だんだんと吸う息が浅くなり、眠ったまま自然に息を引き取りました。

十二歳よりお寺の娘となり、約七〇年。お寺のために生きた、僧侶並かそれ以上の信仰修行の人生であったと思います。

日本では古来より、先祖は神となり、畏敬なる存在となるとしてまいりました。

古い書物には「この神様は何某という人の魂が神となった」などとあります。八幡様はその象徴です。この日本伝統の信仰は仏教によってさらに具体的になりました。

母は、深い陰徳を積んで自由な魂となって、これからも宝光寺と三塚を見守ってくれることと思います。

先先代の釋日学(潮随)の時から先代潮興、そして潮叡と、宝光寺は創建以来の加持祈祷寺で御座いますから、荒行を勤めます。
日学上人の五百日のうちの二百日、父の八百日、私の三百日、合わせて千三百日の間、確かに行をする我々も大変で、命の限界を彷徨う行をします。

しかし、それは一人ではできません。外に見守り支える人あっての荒行です。
それを千三百日、生涯に十三年も勤めることは、望んでもできないことでしょうし、お役目を与えられたとて、全うできることではありません。

そのような母の深く強い信仰をしみじみ憶う時、自分の悩みをちっぽけに思い、至らなさを拝み、そしてより深い信仰へと突き動かされます。

R仁・参・廿七 宝光寺潮叡